
昨日、「お正月、終わりましたね」と言ったら、
○○○さんが、冗談めかして
「ひきこもりは1月いっぱいお正月ですよ」
と、話してくださいました。
そうそう、その言葉の奥に、いろんな思いがあります。
「1月いっぱいお正月」「毎日が日曜日」は知恵
「1月いっぱいお正月」は、「ひきこもりは毎日が日曜日」と、似ています。
当事者のあいだで、こういう自虐っぽい言い方をすることがあります。
一見すると、軽薄に見えるかもしれません。
世間からは、「世の中を舐めている」「だからダメなんだ」と、受け取られることもあるでしょう。
でも、当事者にとっては、だいぶ違います。
逃げではなく、しんどさの中で、なんとか息をつくための「知恵」だと、私は思っています。
世話人が、あえて言う理由
世話人である私も、ときどき、集まりや個人的な会話の中で、そういう言い方をします。
こんなふうに考えているからです。
ひとりで、くよくよ悩み続けるのは、精神衛生上、あまり良くありません。
とはいえ、自分で自分に
「気にするな」「大丈夫だ」
と、言い聞かせるのは、正直、無理があります。
そんなとき、誰かに、共感の態度で、少し冗談めかして言ってもらうことで、ふっと気が楽になることがある。
そういう瞬間は、確かにあると思うのです。
また、この背景に、もうひとつ考えていることがあります。
それは、一般論でもあるし、当事者である自分を振り返って感じることでもあるし、ご参加者と話していて思うことでもあります。
ひきこもりは、どうしても心が揺れやすくなりがちです。
自己肯定感が低くなっていたり、無職であることを気にしていたりして、自分の足場がぐらついていることが多いから。
私自身は、偉いわけでも、立派な人間でもありません。
だからこそ、「ひきこもりは毎日が日曜日」みたいな言い方で、「大丈夫です」と、お伝えするくらいが、ちょうどいいのかなと思っています。
戦っている人たち
ところで、私は、Breakにいらっしゃる皆さまを、どう見ているのか。
正直に言って、その方々のがんばりや辛さを、私は深く理解できているわけではありません。
ひきこもりは状態であって、ひきこもる理由は人それぞれだからです。
それでも、いろんなことがあったんだろうな、よく我慢されてきたんだろうなということは、間違いないと思うのです。
無為に過ごしているように見えても、自分自身でそう思っていても、実はみんな戦っていないわけではない。
むしろ、静かに、長く、戦っている方が多い。
それは私だけでなく、Breakに参加される皆さまの共通認識ではないかと思います。
もったいない人たち
それから、もうひとつ。
皆さま、それぞれ、いろんな優れた点をお持ちです。
賢い、優しい、我慢強い、よく気が付く、面白い、カッコイイ、かわいい…などなど。
また、謙遜される方、控えめな方が多いので、知り合ってからだいぶ後になって、「よく知ってますね」「そんな経験が」「すごい」というような話を聞いたり、見たりすることが、何度もありました。
だから、私は、こう思っています。
もったいない。
社会的損失じゃないか。
どうにかならないか。
視界が開ける瞬間は、きっと来る
ひきこもりという状態や、その理由が、どれほど深刻であっても、優れたものを持っている方は、たくさんいます。
特に、ライト層ひきこもりの集まりである、Breakにおいては、ちょっとしたアシストや環境の変化があれば、それぞれの場所で力を発揮できる人が多いのではないかと感じています。
どこかで、何かのきっかけで、視界がふっと開ける瞬間は、きっと来る。
私は、そう信じています。
だから、いまは、たまたま運が回ってきていないだけ。
タイミングがまだなだけ。
そのときが来たら本気を出せるように、いまはコツコツ準備される時期。
Breakは、微力ながらその一助になればいいなと思っています。
補足
ふだん、対面やXでは、少し場を和らげる意味もあって、自分のことを「わたくしめ」という言い方をしています。
これまでのコラムでは、等身大の当事者として「僕」を使うことが多かったです。
今回は、初めてBreakを知る方や、ひきこもりについてあまり馴染みのない方にも読んでいただくことを意識して、自助会の世話人として、ごく自然に「私」で書いてみました。
年始に合う話かな、とも思って。
※画像の焼肉定食は、2020年1月、「集いば いっぽ~」書初めで、書道の師範でもある当時の支援員さんが見本に書いてくださったものです。





