僕は読むのも書くのも苦手です。
軽い学習障害か、普通とのボーダーライン上にいるようです。
新聞が読めない
長らく新聞も週刊誌も、ニュースサイトもうまく読めませんでした。
読もうとしてもなかなか頭に入ってこず。
もっと早く!といくら急き立てても、小学生のように一字一字読み進めて、やっとのことで一つの記事を読み切るかんじ。
四つ、五つやる頃には頭が疲れてしまって、それ以上読み進む気力を失ってしまうことがよくありました。
基礎知識や読解力に問題があると、こういうことはしばしば起こります。
僕にもそれがないとは言えませんが、なんというか線の塊を意味のあるものとして認識する処理能力が弱いのが原因ではないかと思います。
それならば、無理せずテレビやラジオのニュースに頼ればいいのですが、それはそれで難あり。
扱う項目が少ないのと、自分で順番を決めたり見る見ないを決められない不自由さは、視聴を億劫にさせるので。
世情に疎い
そんなわけで、あのとき、そのときのことを知らないできました。
それらの情報は、当然のことながら記憶としてしまわれることがありません。
脳の中の、本来それらがあるべき位置には、なにもありません。
からっぽの引き出しが無数にある状態です。
一言でいえば世情に疎い。
僕は、大人として知らないことが多すぎます。
恥ずかしい。
でも、それ以上にそのことが自分自身の存在を不安定にしてきたのではないかと思います。
社会の記憶がない
自分とは記憶の束です。
アイデンティティは記憶が作っているといってもよいでしょう。
その記憶は、自分に直接関係することだけで構成されているのではありません。
自分は社会の中にいるので、社会の記憶をも含んでいます。
ところが、僕という人間には、社会の記録が自分の記憶として、あまり含まれていないのです。
そこに強い違和感があります。
自分の一部が欠けているように思います。
なにか社会から疎外されているようにも思います。
世の中について行けてない焦りがあり、ぽつんと取り残されている気がします。
こじらせて、ひきこもり
ぜんぜん読めないわけではないのだから、そんなことはどうでもいいのではないかという人は少なくないと思います。
僕はたまたま気にしてしまう性格らしい。
社会についてやや関心が高いのかもしれません。
それゆえに、諦めきれず、何とかしようとこだわってきました。
成果がでず、こじらせて20年以上ひきこもる羽目になりました。
人並み程度に読み書きできるようになれたかな、と思えるようになったのは、ここ数年です。